#02 星野道夫『旅をする木』


「写真を撮り続ける人にとって、そこにいる違和感を強く感じられることはとても大切な資質なんだよ」と、知り合いのカメラマンが言っていた。どうして毎日同じベッドで眠らなければならないのか。その選択肢を避ければ、ものすごい非日常が待っているだろうに…などと、仕事に悩みながらそんなことを考え続けていた20代半ばの私にとって、アラスカを撮り続けた男・星野道夫の本は衝撃的であった。

その頃読んだ本のタイトルは忘れてしまったが、鮮やかな自然や動物達のダイナミックな写真とわかりやすく生き生きとした言葉で日々の変化が綴ってあって、夢中で読んだのを覚えている。中でも著者がアラスカに初めて行った話はとても印象的だった。19歳の時に神田の古本屋で発見したアラスカの写真集の、小さなシシュマレフ村の空撮写真に夢中になってしまい、拙い英語で村長へ「なんでも手伝いますので僕の面倒を誰かみてください」といった内容を送りつけると、なんと歓迎の返事が来たので半年後に本当に行ってしまったのだという。

写真のなかの小さな何も無い村で、見知らぬ人々が実際に生活をしている。この地球のどこかで。そんな当たり前の事が信じられない。だから、見に行きたい。星野道夫はこのような衝動に駆られ、結局アラスカに移り住み、日本人女性と結婚し、カリブーを追い続け、1996年8月8日に43歳の若さでヒグマに喰い殺され生涯を終える。

本書『旅をする木』に、写真や挿絵は一切無い。実際、全くそれらを必要としない。アラスカの歴史を深く学び、動植物の名前の多くを覚え、カメラの眼でつぶさに日々を観察し、人間を拒絶するような大自然の生と死に身を晒し、現地の人々との出会いと別れを胸に刻んだ男の文章は、写真集では語りきれないものを溢れんばかりに伝えてくれる。33篇のどれもに想像を絶する自然や宇宙のスケールの大きさと、命のはかなさが滲んでいた。友人パイロットの死や季節のあっという間の変化に想いを馳せる本人が、本文を書いている2〜3年後に命を落とすのだから辛い。しっかりと文末に記された日付が、私にはカウントダウンにしか見えなかった。

 無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、何と粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐり会えるのか。その回数をかぞえるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません。

 アラスカの秋は、自分にとって、そんな季節です。

 

                        一九九三年九月五日

 
とはいえ、別に陰鬱な本では決して無い。むしろ深いきらめきに満ちている。忘れられた島に初めて上陸したような、そこで目にした青々とした自然のようなきらめきだ。

クィーン・シャーロット島の、人を埋葬したトーテムポールを取り込むようにして育った大木。その頃北太平洋を航海もしていないのに、17世紀に日本で書かれた北太平洋の地図の謎を嬉々として語るおばあさん。グッチン・インディアンの集会で自然環境や自身の抱える不安を打ち明ける人々が、発言する時に握りしめる白い杖。一万年前と変わらない、ツンドラを覆い尽くすようなカリブーの群れの景色。黒潮が連想させる、クリンギット族の祖先に日本人の血が混じっているのではないかという口承伝説…。

冒険物語の原型があちこち散らばっているようにも見えるが、そもそも私たちが失ったもの(自然への畏怖や動物としての嗅覚のようなもの)が散らばっているのだろう。著者が人生に求めたのは、まぎれも無いその「失ったもの」の手触りだった。

「私たちには、時間と言う壁が消えて奇跡が現れる神聖な場所が必要だ。今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんなことを一切忘れるような空間、ないしは一日のうちのひとときがなくてはならない。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことの出来る場所だ。これは創造的な孵化場だ。はじめは何も起こりそうにないが、もし自分の聖なる場所をもっていてそれを使うなら、いつか何かが起こるだろう。人は聖地を創り出すことによって、動植物を神話かすることによって、その土地を自分のものにする。つまり、自分の住んでいる土地を霊的な意味の深い場所に変えるのだ。」                  (ジョセフ・キャンベル)

 
神話学者ジョセフ・キャンベルの言葉を引用し、ルース氷河の源流に想いを馳せる事が出来る著者を本当に羨ましく思ってしまう。都会生活における比較の視線に心がギスギスし、自分の神聖な場所を創る余裕がないときは、本書をはじめとした星野道夫の本を手に取ることをオススメする。アラスカの自然と生きていく事は本当に厳しいだろうが、もし読んでみていつか行ってみたいと思えたなら、その胸中の大自然が神聖な場所となるかもしれない。そして全てのものが旅の途中であるということを、きっと思い出せることだろう。


書名 :旅をする木(文春文庫)
著者 :星野道夫
発行 :1999年03月10日 第一版
発行所:株式会社文藝春秋